思考に言葉は欠かせない。

我々が何をするにせよ、しないにせよ、言葉は常に頭の中を巡るだろう。
言葉は道具だ。
思考の道具だ。

では、ある一定のことを為すとき、道具の形が異なっていたならば、果たして結果は同じだろうか?

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平行世界があるとする。
これはどこもかしこも相似の世界だ。
唯一異なること、それは言葉。

この世界の私は日本語を使う。
はんなりと。

もう一方はドイツ語を使う世界。
はんなり、に相当するドイツ語を私は知らないが、あってもきっと濁音をふんだんに織り交ぜた感じになるんじゃないかな。

国民性・風土によって言葉は作られたとする。
では逆はどうか?
いま、その言葉によって私たちの精神は作られてはいまいか?

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何をするにも言葉はついて回る。
頭の中で常に回っている言葉が、日本語で 速度 とか ボールペン って単語である一方。
ドイツ語の世界では ゲシュヴィンディヒカイト とか クーゲルシュライバー なわけです。

「ゲルハルトベルガーがすごい速度でボールペンを飛ばした」なんてドイツ語にしたらかっこよすぎる。
いちいちもうね。ヴァイスとかシュヴァルツとかさ。

言葉の響きがもたらす、我々への少なからぬ影響。
関西弁がもたらす関西人の押しの強さ。
沖縄人の緩さ。
果たして因果はないものか?

それらを解明して、世界で一番優しい言葉を作ろう。
口にするのもやわらかく、耳にするのも心地よい言葉は、我々の思考を穏やかにするだろう。
それを世界中に広めたならば、風土の違いはあるにせよ、地域差は平均化されるだろうか。

バベル以前の世界を想う。